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東京高等裁判所 昭和54年(う)2314号 判決

被告人 吉田和夫

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人桝田光が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官岡田照彦が提出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用し、これに対して、当裁判所は、次のとおり判断する。

控訴趣意第一点(訴訟手続の法令違反の主張)について

所論は、原判決が原判示第三の事実に関する証拠として挙示する「坂巻靖弘の検察官に対する供述調書」は、本件記録中に存在しない虚無の証拠であるから、これを事実認定の用に供した原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで検討するに、原判決書を見ると、原判示第三の事実に関し証拠の標目として所論の供述調書が挙示されていることは明らかであるが、原審記録によると、右供述調書は弁護人がこれを証拠とすることに同意しなかつたため検察官においてその取調請求を撤回していることが認められるのであつて、右同一人の司法警察員に対する供述調書が適法な証拠調手続を経ていることからすれば、「司法警察員」と記載すべきものを「検察官」と過つて記載したことがうかがわれるとしても、これをもつて単に明白な誤記と認めて処理することは相当とは認められないから、原判決には適法な証拠調をしていない証拠を挙示し事実認定の用に供した違法があるといわざるを得ないことは所論のとおりであるけれども、しかし、原判示第三の事実は、原判決が当該事実に関して挙示するその余の各証拠によつて優にこれを認定することができるのであるから、右の違法は結局判決に影響を及ぼさないことが明らかというべきである。論旨は理由がない。

控訴趣意第二点、第三点(事実誤認の主張)について

一  所論は、刑法二一一条にいう「業務」とは社会生活上の地位に基づいて継続して行う事務をいうものであるが、被告人の原判示第二の行為は、たまたま自己の勤務する寿司店の支配人である児玉義男が築地の魚市場に魚の買出しに出発しなければならない時刻なのに、原判示自動車の中で疲れて仮眠していたのでこれに同情し、無免許の身を顧みず初めて路上で自動車を運転したものであるから、被告人の運転行為には業務性がないのに、業務上過失致死罪の成立を認めた原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、というのである。

しかしながら、原判決が当該事実に関して挙示する各証拠を総合すれば、被告人は、原判示交通事故を起こすに先立ち、千葉県我孫市湖北台一丁目一三番二一号所在の福寿司前から東京都墨田区吾妻橋三丁目一三番一二号先に至る間、市街地道路を含むかなりの長い距離を約一時間五〇分にわたり普通貨物自動車を運転し順調に走行していること、昭和四四年ころ運送会社で貨物自動車の運転助手をしていたとき自動車の運転技能と交通法規の概要を習得しており、福寿司に勤務するようになつてからの約三か月間においても、平素洗車のための車庫からの車の出し入れを含め、何回となく自動車の運転をしていたことが証拠上うかがわれ、このことは、被告人自身が当審において寿司の出前のため自動車の運転をしていたことを肯定するに至つたことにより一層明白となつたのであつて、以上の事実関係の下においては、本件運転行為が反復継続する意思をもつて行われていることが明らかであるから、被告人の運転免許の有無や運転自体がこれによつて収入を得る本来の職務であるかどうか、また、平素は短い距離しか運転していなかつたかどうかなどにかかわりなく、被告人の本件運転行為は刑法二一一条にいう業務としてなされたものと認めるのが相当というべきである。論旨は理由がない。

二  所論は、原判示第二の事実に関し、本件交通事故による被害者の受傷と同人の死亡との間に相当因果関係が存在することについては明確な証明がないばかりでなく、その間に被害者の過失と診療担当医の診断・治療の誤りが競合介入しているから因果関係の中断がある、というのである。

しかしながら、原判決の挙示する証拠、とりわけ医師向田政博、同三木敏行共同作成の鑑定書、鑑定人・証人向田政博に対する尋問調書によると、本件被害者の死因は、第三脳室の底部から大脳脚にかけての軟化巣からの脳室内出血であると推定されるが、この軟化は外傷性の血管壁の変性によると考えられる、とされている。そして、この血管壁の変性が外傷性のものであるとの判断は、右軟化巣に接するトルコ鞍部から後頭骨底部、延髄前面にかけて存在する陳旧化した硬膜下血腫がむち打ちなど当該部位に強い外力が作用した場合に生ずるもので、その血腫の古さは本件事故に起因すると考えても矛盾がないこと、この解剖所見は、被害者が受傷した翌日から訴え始めた頭痛や目まい、複視などの自覚症状とも符合していると認められることなどによつて十分に裏付けられているのであつて、本件のように、追突事故により頸椎捻挫の傷害を負つた者が受傷後四〇日目に右傷害に基づく脳室内出血によつて死亡することは稀有な事例に属するとしても、右の鑑定結果は、よくこの間の因果関係の推移を解明し得ていて、その説明するところは理にかない十分信頼できるものと認められるから、これを採つて被害者の受傷と死亡との間に刑法上の因果関係があると認定した原判断は正当であつて、これを肯認することができる。所論は、先天性動脈瘤の存在とその破裂による脳室内出血の可能性が存することが否定し切れないことからすれば、肝心の出血した血管の破裂が外傷性のものであるとは断定できないはずであると主張するけれども、前記向田政博の原審供述によれば、右の可能性が少ないばかりでなく、先天性動脈瘤の病的な破裂があつたと仮定した場合でも、本件においては外力と無関係ではあり得ないと考えられるというのであつて、いずれにしろ刑法上の因果関係の存在を否定する事由とはなり得ないものであり、その他所論が指摘する諸点を逐一よく検討してみても、以上の結論を左右するに足りない。また、記録を精査しても、因果関係の中断を認めるべき被害者及び診療担当医師の過失が存在することをいう所論については、そのような特段の事情の介在することをうかがわせるに足る資料は見当たらない。論旨は理由がない。

三  所論は、原判示第三の事実に関し、被告人は児玉義男に対し犯人隠避を教唆した事実はなく、仮にそのような事実があつたとしても、同人は自らの意思に基づいて被告人の身代りになつたものであるから、被告人の教唆行為と児玉の犯人隠避行為との間には相当因果関係が存在しない、というのである。

しかしながら、原判決が当該事実に関し挙示する各証拠(坂巻靖弘の検察官に対する供述調書を除く。)を総合すれば、原判示第三の事実を、所論の点を含めて、優に認めることができる。すなわち、被告人が原判示日時場所において原判示事故を起こした際、自己の無免許運転が発覚することを恐れ、助手席に同乗していた児玉義男に対し「マスター、事故を起こしてしまつた。すみませんが代つてください。」などと言つて同人に自己の身代り犯人となることを依頼した結果、同人において犯人隠避をする犯意を生じ、原判示のとおりその実行行為に及んだことが明らかである。被告人は、当審に至つて自白をひるがえし、身代りを依頼した事実はない旨供述するに至つたが、右事故発生後二日目の昭和五一年五月二七日に児玉義男とともに警視庁本所警察署に出頭し、加害自動車を運転していたのは児玉ではなく被告人であることを述べるとともに、同年六月一七日には犯人隠避教唆の事実をも自白し、それ以降捜査段階及び原審公判を通じて一貫してこれを維持しており(なお、被告人が昭和五四年一月二四日検察官の取調を受けるに至つて突然自白した旨主張する所論は、証拠に基づかないもので失当である。)、しかも右供述は、児玉の検察官に対する昭和五三年二月一日付、同五四年一月二六日付各供述調書(いずれも謄本)とも符合し、これを十分措信することができるのであつて、これに反する当審供述をもつて前記認定を左右することはできない。所論は、そもそも児玉の右検察官に対する各供述調書(いずれも謄本)が措信できない旨主張するけれども、それらは同人が東京地検及び千葉地検松戸支部で順次取調を受けながら、いずれも原判示事実にそう供述を反復しているのであつて、同人が事故発生後間もない時期に司法警察員に対し被告人から身代りを頼まれたことを供述していないことは所論のとおりであるが、当時同人に対する捜査の重点が置かれていた事項や同人が被告人及び上司の坂巻靖弘に対し格別の配慮を払わなければならなかつたことなどを考えると、右司法警察員に対する調書は、身代りの依頼を受けたかどうかの点に関する限り、事の真相をありのままに述べていないものと認められ、措信するに足りないのであるから、これをもつて右各検察官調書(いずれも謄本)の信用性を疑わせる資料とはなし難い。また、児玉の前記検察官に対する各供述調書(謄本)をよく検討してみても、同人は、被告人の教唆行為と自己の犯人隠避の決意との間における因果関係の存在を疑わせるような供述をしている趣旨とは認められない。論旨は理由がない。

控訴趣意第四点(量刑不当の主張)について

原審記録及び当審における事実取調の結果によつて認められる諸般の情状、とりわけ原判示第二の被告人の過失の程度が大きく、かつ、結果も重大であること、しかも自己の罪責を免れるため身代り犯人を立て、虚偽の供述をしていること、原判示第一ないし第三の各罪につき処分がないうちに、またも原判示第四、第五の無免許・酒気おび、指定速度超過運転に及んでいることなどに徴すると、被告人の交通法規に対する遵法意識の欠如、法無視の態度が顕著に認められ、被告人の刑責は重いといわなければならない。

所論は、原判示第一、第二の各事実につき、法律上の自首を主張するけれども、証拠によれば、原判示交通事故の発生した直後現場に到着した警察官が被害者から一応被害状況を聴取した後、被疑者を確定するためその場に佇立していた被告人及び児玉義男の両名に対し「ライトバンを運転していたのは誰ですか。」と質問したところ、児玉が被告人の前記教唆に基づいて「私が運転していました。申訳ありません。」と答え、警察官の求めに応じて運転免許証を呈示したが、その際、被告人は「車の中で寝ていたので何があつたのかわからない。事故に遭つて初めて気が付いた。」旨虚偽の供述をしていたことが明らかである。以上の事実関係によれば、原判示第一の業務上過失致死(当時は傷害)の犯罪事実は捜査官憲によつて覚知され、しかもその犯人は被告人と児玉以外にはないとして、二者択一の関係において、しかもその運転者が運転免許を有するかどうかの点を含めて、犯人特定のための捜査が開始されているのであり、その際、被告人としては翻意し真犯人は自分であり、しかも無免許であることを申告しようと思えば容易に申告できる機会が十分にあつたのに、あえて虚言を弄し警察官を錯誤に陥れた結果、原判示第一の無免許運転の事実の存在を含め、それらの真犯人の発見を妨げ、無用の捜査を続行させたのであるから、その二日後に至つて従前の供述を改め、自己が原判示第二の罪を犯した真犯人であり、かつ、その際無免許運転であつた旨真実を申告したとしても、自首制度の趣旨目的に徴し、刑法四二条一項にいう「官ニ発覚セサル前」の要件を充足するものではなく、自首には該当しないと解するのが相当である。

そうすると、被告人には前科がないこと、原判示第二の事実につき被害者の遺族と加害車両の所有者との間で示談が成立していること(ただし、被告人は全く金員を支出していない。)、被告人が反省悔悟して被害者の遺族に謝罪し、その妻から嘆願書が提出されていること、その他被告人の現在の心境、その家庭の状況など所論の訴える被告人のために有利に参酌できる諸事情をすべて考慮してみても、本件は刑の執行猶予を相当とする事案とは思われず、被告人に対し懲役一年の実刑をもつて臨んだ原判決の量刑は、その刑期の点を含めて、重過ぎて不当であるとは到底いうことができない。論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項本文を適用してこれを全部被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 小松正富 寺澤榮 宮嶋英世)

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